flumpool『君に届け』ストーリー
- 伊吹 一

- 2022年3月23日
- 読了時間: 4分
君へ。
おひさしぶりです。元気にしてますか。今年の冬は、いつもにまして寒いですが、体調など崩されていませんか。僕は今、坂道の途中にあるバス停のベンチに座って、やってくるはずのバスを待っています。バスを待っていたら、斜向かいに一本の桜の樹を見つけました。その桜はまだ花を咲かせていないけど、その樹は紛れもなく、桜です。桜の樹です。
十数年前の、とある春のことです。僕は君に出会いました。席順で隣になった君は、窓際の席であるのをいいことに、一日中窓の外を見ていましたね。
あるお昼休みのことです。君があまりに熱心に外を見ているので、僕は思わず聞きました。「君は何を見てるの?」。君は「空を見てるの」と言いました。僕が「なんで空を見てるの?」と聞くと、君は真顔で言いました。「毎日空を見てれば、いつか幸せになれるんです」と。そんな君のことを周りは笑っていたけれど、それでも空を見上げ続ける君の横顔に、僕は恋をしました。
初めて君の笑顔を見たのは、それからしばらく経ったある日のことでした。きっかけは些細なことでした。古文の授業中、僕は居眠りをしました(5時限目の古文ってなんであんなに眠かったんだろうね)。授業開始数分後から、授業終わりまで机に突っ伏して寝続けた僕のおでこには、くっきりと消しゴムの跡がついていました。僕の顔を見た君は、折りたたみになっているちいさな鏡を貸してくれました。こすってもこすっても消えないおでこの赤みに焦る僕に、君は初めて笑顔を見せてくれました。あの日の夜、僕は消しゴムとまだうっすら赤みが残るおでこに心からありがとうを言いました。
初めてのデートは、駅前のカラオケ屋さんに行きましたね。音痴な僕と、恥ずかしがり屋な君は、ただ目を見合わせるだけで、結局一曲も歌うことができませんでした。君と無言で食べたしなびたポテトと、ドリンクバーのちょっと薄いコーラの味は、今でもたまに思い出します。
君とする夜の電話が好きでした。君の話すことは、皆とまったく違いました。「世界の始まりはどこにあるんだろう」「朝、オレンジジュースを飲むといいことをした気になるのはなんでだろう」「毎週シーツを洗える人って人生何回目なんだろう」。後にも先にも、君のようなことを考える人に出会ったことはありません。僕は君の見つめる世界が好きでした。
初めて君に触れたのは、ずっとずっと後のことでした。その日、僕と君はバス停でバスを待っていました。バス停には、僕と君しかいませんでした。そのとき僕は、世界には僕と君しかいないような気がして、君の目を見ると、君もまたそう思っているように思えました。そして、僕は君に触れたいと思いました。でも怖かったんです。それは触ることにならないかって。そう、触れるのと触るのは違うんです。僕は君に触れたかった。君の左手が僕の右手の横にある。僕が手のひらを君の手のひらにそっと近づけると、君は僕を見ました。僕はやっぱり怖くなって、手のひらを戻そうとしたとき、君の左手が少しだけ動きました。僕はその動いた君の手をそっと掴みました。君の手のひらから感じるぬくもりは、よく晴れた午後の日差しよりあたたかくて。僕は幸せの意味を知りました。
君のはにかむ笑顔が好きでした。切りすぎた前髪をごまかそうとしたとき、待ち合わせ場所を間違えて2時間半も遅刻したとき、マフラーを巻いてあげたとき。君はよく、そんなふうに笑いました。君がいて、僕がいて。君が微笑み、僕が微笑む。君は僕のすべてでした。
そう。君は春みたいな人でした。僕が「君は春みたいだね」というと、君は「花粉症だからちょっとなぁ」と笑っていたけれど、僕は本気でした。君は春でした。
ある日の帰り道のことです。僕たちは一本の樹の前を通りかかりました。何の変哲もないその樹を見上げて君は、「さくら……」とつぶやきました。その時の僕は、薄紅色じゃない桜を桜と思える人間ではありませんでした。「花のない桜は、桜じゃないよ」と笑った僕は、あまりにも愚かでした。君はあのときも微笑んでくれたけど、あの微笑みがこれまでの微笑みとは全く違うものであることが、今なら分かります。あのときは、本当にごめんなさい。
君とお別れしてから、もう随分と経ちました。元気かって? 元気ですよ。僕は毎朝目覚めるし、働くし、食べるし、笑うし、泣くし、眠ります。でも、ふとしたとき、立ち止まることがあります。春が頬を通り過ぎたときです。生きていると、春の風が通り過ぎることがあります。春の吐いた息が春の風となって、僕の元にやってきて、そして過ぎ去るんです。そのたびに僕は思い出します。君の声を、笑顔を、ぬくもりを。
今、君がどこにいて、何をしているのか、僕はまったく知りません。でも、春を感じたその瞬間、君はあらわれます。過去とは、昔のことではありません。過去とは記憶という手がかりをもとに、今の私が見るささやかな白昼夢なんだと思います。
春が近づくと、君がやってきます。君と見てきた花は、もう咲いていないけれど、新しい花たちを連れて、春は今年もめぐります。春がくるたび、僕は空を見上げます。そしてちいさく微笑んでみせるんです。
バスが来たので。それでは、また。
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