『冬と田代さん(あさり)。』
- 伊吹 一
- 2022年3月21日
- 読了時間: 4分
更新日:2022年3月23日
ある、ふつうの冬の夜のことです。ぱしゃぱしゃと浜辺のほうで水の跳ねる音がしました。なんだろう、と、寝ていたあさりの彼(田代さんと言う名前です)は、目を覚まし、そして思いました。
「また人間のやろうか?」
人間は、春のある時期になると、群れをなして浜に集まり、フォークのような形の金属棒で、ガリガリと砂をかじり、彼の友人や家族をたんまり獲り、満足するとニコニコとワンボックスカーに乗り込み、そそくさと帰るのです。さらわれた家族や友人は、にんにくとオリーブオイルまみれになってお酒のアテにされることもありますが、大抵は翌日の朝食に出る茶色いスープのだしとされ、具にされます。人間たちは、それを飲み、「あーやっぱり味噌汁は落ち着くねぇ」なんて、しみじみ言ったりします(彼らがあさりでも、はまぐりでも、しみじみ言います)。
あさりである田代さんは、それを素敵なことだとは思っていませんでした。なので、この日もまた、人間がそんな目的で、この浜にやってくることが許せなかったのです。
とはいえ、季節は冬です。冬の海は孤独で、静かです。ましてや、今は夜です。冬の夜の海に、こんな浜にやってくるのは、どんな物好きなのだろう……。いや、もしかしたら、あの忌々しき、おばけというやつかもしれない……。気になりだすと、物事が解決するまで頭から離れないのが田代さんの良さであり、弱点です。田代さんは、その特徴から、「あさり界のコナン」なんて言われています。
せっかくのんびり寝ていたのに……。それでも、ぱっくりと目が覚めてしまった彼は、仕方なく潜っていた砂から顔を出し、浜のほうを見てみることにしました。浜の夜に、月の光がやんわりと差しています。静かな夜です。ざざーっ、ざざーっと、波の音が聴こえています。最初はおぼろげだった風景が次第に田代さんの世界に色彩を与えます。田代さんはゆっくりと目を凝らしました。そこには、一人の人間がいました。
「やはりにんげんだ!」
田代さんはそう思いました。しかし、その人間は、田代さんがよく知っている、ワンボックスカーに乗ってやってくる四人組の人間とも、自分たちからやって来ているのに「みず、つめたいー」と海に文句を言いつける若者のカップルたちとも違って、青い顔をしていて、痩せこけていて、ひとりきりで、静かな人間でした。
その人間は、靴や靴下を浜に置いて、足を海に浸からせて、うろうろと歩いていました。金属の棒は持っていません。人間は、最初はためらい、そのあたりをいったりきたりするだけでした。田代さんはそれをじっと、じっと見つめていました。なぜかは分かりませんが、これはただ事ではないと思ったのです。田代さんは、その人間の一挙手一投足を見るために、さらに砂の上まで出てきて、二枚貝をかっぴらいて、人間の行く末を見守ることとしました。
うっすらと、遠くの空が白くなってきました。夜が消えそうな時間です。人間は、その空を見つめると、小さく頷き、ついに田代さんのいる、少し深い海の方へやってきました。一足、また一足。人間は田代さんのいるほうにまっすぐまっすぐやってきます。ぱしゃぱしゃという音は次第に、じゃばじゃばになり、そして、音がなくなろうとした、その時でした。
「いった!!」
人間が叫びました。驚いた人間は、深い海から浜に急いで戻りました。人間は、左足の裏を怪我していました。静かに「いったぁ……」とつぶやき、足の裏を見つめていると、人間はなぜか笑いだしました。最初はくすくす笑っていた人間ですが、次第に大笑いし、いつしか、その場で転げ回るように笑い出しました。飽きるまで笑うと、人間は体中についた砂をはらい、靴下をはき、靴をはき、浜辺をあとにしました。人間は、道に出てしばらくすると、キラキラ光る四角い建物に入り、ちいさい、湯気の出ている真っ黒な飲み物とバンソウコウを買い、外のベンチに座って、ぼんやり赤くなっている空と海を見ながら、その飲み物を一口飲みました。
「うまい」
そうつぶやいた人間は、左足の靴下を脱ぎ、足の裏にバンソウコウを貼りました。人間は、傷つくとバンソウコウを貼る生き物なのです。
バンソウコウを貼り終えると、隣にもうひとり、人間がやってきました。バンソウコウを貼り終えた人間は、靴を履き直し、そしてまた、黒い飲み物をうまそうに一口すすりました。すると、隣の人間も同じく真っ黒な飲み物をちびちび飲んでいたので、人間は言いました。
「やっぱりコーヒーは落ち着きます」
「あさりの味噌汁には負けますけどね」
「たしかに」
青くなっていた人間のほほは、少しだけ赤くなっていました。
(2022年1月25日 note より転載)
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